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執筆者の写真井上 迅

上村松篁と秋野不矩 

以下は現在開催中の〈秋野不矩美術館​ 上村松篁が描く万葉の世界 『額田女王』挿絵原画〉展(2024年2月10日~3月24日)の内覧会(2月9日)でご挨拶したときの草稿です。


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 ご紹介にあずかりました、秋野不矩の会の井上 迅じんです。

 わたしの父、井上 等ひとしは、秋野不矩の五男で、母と結婚して井上姓となりました。母は寺の一人娘で、父は母と出会ったことで寺へ養子に入り、住職となったわけです。わたしは今、おととしの秋に命終した父の後を嗣ぎ、京都の町中に位置する德正寺の住職をつとめています。

 その徳正寺ですが、住所で言うと京都市下京区富小路通四条下るにあります。京都は道が碁盤の目に東西南北と走っているので、縦の道、横の道が交差するところを上るのか下るのか、東へ入るのか西へ入るのか、住所が座標軸で示されるので、昔は町名を使わなかったのです。

 上村松篁さんの年表を見ますと、「明治35年(1902) 下京区四条御幸町西入る奈良物町に、上村松園の嗣子ししとして生まれる。本名:信太郎」とあります。これは德正寺、わたしが今日ここに来るのに出かけてきた家から歩いて3分もかからないところです。その住所は、松篁さんの母 松園さんの生家でもあって、松園さんが生まれた頃は葉茶屋を営まれていたそうです。松園さんはわたしの通った小学校(下京第11番組小学校、わたしが通った頃は京都市立開智小学校)の大先輩にあたり、明治14年(1881)に入学されています。松篁さんは1歳の時、お母様が画業に専念するため「車屋町通御池下る」の住所に転居されたから、小学校の先輩にはなりませんでした。

 祖母、秋野不矩が西山翠嶂さんの画塾青甲社しょうこうしゃの塾生になったのは、昭和4年(1929)なので、秋野不矩が松篁さんと初めて出会った時は塾生の大先輩ということでした。松篁さんは大正13年(1924)、第1回の青甲社展で画家としての手応えを摑んだ《椿》という代表作を出展されてるから、西山翠嶂門下では将来を嘱望されるホープだったのでしょう。ちなみに私の祖父、沢 宏靱こうじんも青甲社同人で松篁さんより3歳年下の明治35年(1905)生まれです。秋野不矩は明治41年(1908)生まれ、松篁さんより6歳年下です。ちなみに秋野不矩が青甲社展に初出品するのは、昭和5年第7回のことでした。

 このように松篁さんが、秋野不矩にとっては大先輩でありながら、戦後まもなく、昭和23年1月、「我等は世界性に立脚する日本絵画の創造を期す」との宣言のもと、〈創造美術(現 創画会)〉の結成に参画された。秋野不矩 上村松篁 奥村厚一 加藤栄三 菊池隆志 沢 宏靱 高橋周桑しゅうそう 橋本明治 広田多津たづ 福田豊四郎 向井久万くま 山本丘人きゅうじん 吉岡堅二の、女性2人を含む13名の中の同人の一人として名を連ねるところ、戦後民主主義の流れの中で、アカデミックな権威主義にとらわれない自由闊達な潮流に松篁さんも意を決して、この革新的な美術団体に身を投じたのでしょう。

 わたしは松篁さんとおそらく小学生の頃、お会いしていて、それは京都市美術館(現 通称 京セラ美術館)で春と秋に開催される創画会へ祖母に連れられて行くと、2階入口の脇にあるこじんまりとした作家控え室に松篁さんがニコニコしておられたことを覚えているのです。ただそれだけの記憶ですが、祖母と松篁さんとのあいだ、また控え室に集う作家たちに、先輩と後輩、師弟関係といって分け隔てるような雰囲気は子ども心にも感じられませんでした。

 上村松篁と秋野不矩という二人の作家が、兄弟子、妹弟子(という言葉があるのか知りませんが)という間柄ではなく、美の追求という一点で、共に新しい日本絵画の創造を目指してきた〈創造美術〉の同志としての想いが優っていたのではないかと思います。それと同時、松篁さんが、明治のまだ封建制の強かった時代にあって、女性画家、閨秀けいしゅう画家として名を成した上村松園を母に持ったという経験が後進の女性画家、とりわけ〈創造美術〉草創期からの同志 秋野不矩に対して、厳しくも期待に満ちた眼差しをもって接しておられたのではないでしょうか。秋野不矩にしても上村松篁という作家が、兄弟子である以上に創造の新地平を拓く同志だったのだろうと思います。

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