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軍用機献納作品展出品作《桃に小禽》

 先週水曜日(10月22日)東京へ、竹橋の東京国立近代美術館へ「記録をひらく 記憶をつむぐ」展、通称〈戦争画〉展を見た。

 秋野不矩の《桃に小禽ことり》という小品が展示されているとの情報を、わたしの従姉 稲葉真以まいから得ていたので、かねて〈秋野不矩〉における〈戦争(画)〉、引いては〈日本画〉と〈戦争(画)〉の関係性について、3年後に控えた秋野不矩生誕120年を期した回顧展(静岡・京都・東京を巡回予定)では、避けて通ることはできないテーマになるだろうと、是非とも見ておきたいと思っていた。

 メインの〈戦争画〉展を見た目で、秋野不矩の《桃に小禽》がどう目に映るか、心穏やかに絵画を鑑賞するという姿勢は保ちつつ、美術館へ向かう足取りは心なしか緊張していた。

 会期が残り5日となった「記録をひらく 記憶をつむぐ」展は平日にも関わらず、たいへん混雑していた。展覧会図録が制作されないということが、どういう意図なのか、この展覧会をベールに包んで観客を呼び寄せる効果となったと思う。藤田嗣治の《アッツ島玉砕》(1943年)は、これまで何度かこの絵の前に佇んだことはあるが(生死も判然としない折り重なる人体の狭間に露草とおぼしい花が咲くのをこたびも確認)、ふと一昨年、初めて目の当たりにした丸木位里・俊の《原爆の図》を彷彿としていたら、後から《原爆の図 第3部 水》(1950-51年)が現れて、敗戦を境にした死屍累々としたこの光景の対照はいったい何だろうと考えた。そこには〈洋画〉と〈日本画〉という対照もあった。しかし、会場を見渡して、企画展会場には日本画の作品がほとんどなく、わたしに日本画と意識できたのは、件くだんの丸木位里・俊の《原爆の図》くらいだった。

 日本画における〈戦争画〉は3階の常設展示室にあった。1階の企画展と比べて、こちらの室は閑散としていた。企画展のあと、ここまで訪れる人は、おそらくほんの一握りだろう。ここには《桃に小禽》も出展された、〈軍用機献納作品展(1942年3月|大阪日本橋三越|日本画家報国会 主催)〉での出品作が4、5点展示されていたが、目的の秋野不矩作品は展示替えされて見ることが叶わなかった。軍用機献納作品展に出展された作品は、《桃に小禽》も含めて花鳥風月的な主題を描いている。勇ましい絵は見られず、藤田嗣治、宮本三郎ら洋画作家の記録画の動的な迫力とは違い、全体として静的な緊張感を醸そうとしている。

 しかし、同室に展示された吉岡堅二の《カリジャティ西方の爆撃》(1942年|第1回大東亜美術展)は、日本画の作家の中では異色と言いたくなるようなリアリズムの戦争記録画だった。前景に描かれた銃器は、今の目で見るとプラモデルのように見えるが、そう見えるのはわれわれが戦争のリアリティーを喪って久しいからなのか。《椅子による女》(1931年)、《母子》(1934年)の吉岡のモダンな画風の作品も並べられて興味深く眺めた。

 秋野不矩の時局を強く意識して描かれた作品では、1944年11月、文部省戦時特別美術展出品作の《騎馬戦》(1944年11月|文部省戦時特別美術展|東京都美術館)がある。この絵には、〝静〟の緊張を解き放ち〝動〟へと雪崩れを打つ日本画のカタストロフィーと言えるものが含まれてはいないだろうか。

 秋野、吉岡ら創造美術の作家たちも時局に応じて〈戦争画〉を描いた。これらの作品が描かれた僅か4、5年後に創造美術が発足したことを思うと、敗戦を境にして、モチーフを支える社会背景が180度変化した転形期に、あらゆるジャンルの作家たちがどんな心境の変化を背負ったのか、いまいちど見つめ直さねばならないと、あらためて「記録をひらく 記憶をつむぐ」という展覧会のタイトルに思いを馳せたのである。

 
 
 

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