秋野不矩 年譜 1908-2001
1908年(明治41)─── 0歳
7月25日
静岡県磐田郡いわたぐん 二俣町ふたまたちょう 城山(現 浜松市天竜区二俣町)の神職の家に生まれる。
父 惣吉そうきち、母 かつのもとに、6人兄妹(女5人、男1人)の末子として生まれる。本名 ふく。
1920年(大正 9)─── 12歳
二俣尋常高等小学校(現 浜松市立二俣小学校)で図画教師 鈴木俊平の影響を受ける。鈴木の話や見せてもらった画集を通じて始めてゴーギャンやゴッホの絵にふれる。
1925年(大正14)─── 17歳
3月
静岡県立二俣高等女学校(現 静岡県立二俣高等学校)卒業。
4月
静岡県女子師範学校2部(現 静岡大学教育学部)入学。美術教師 三沢佐助の指導を受ける。
1926年(大正15)─── 18歳
3月
静岡県女子師範学校2部卒業。
4月
静岡県磐田郡横山尋常高等小学校(現 浜松市立横山小学校)へ赴任。1年生を受け持つ。
1927年(昭和 2)─── 19歳
7月
静岡県磐田郡横山尋常高等小学校を辞職。
9月
父親の勧めで、千葉県大網町の石井林響りんきょう に内弟子として入門し、画室掃除や鳥の世話に明け暮れるほか、様々な書画、工芸品にふれる。
1929年(昭和 4)─── 21歳
3月
師 林響、脳溢血症で倒れる。
11月
京都の西山翠嶂すいしょう 塾 青甲社しょうこうしゃ の塾生 福田恵一(帝展作家)の紹介と、塾頭 小川翠村の取次ぎで同塾に入門。当時、堂本印象、上村松篁しょうこうらが絵を学んでいた。
1930年(昭和 5)─── 22歳
2月
25日
師 石井林響他界。
5月
第7回青甲社塾展(京都岡崎第二勧業館)に《休日》を出品。
10月
第11回帝展(東京府美術館)に《野を帰る》を出品、初入選。
1931年(昭和 6)─── 23歳
5月
第8回青甲社塾展(京都岡崎第二勧業館)に《朝露(牛と彼岸花)》を出品。
6月
青甲社研究会展に《花と少女》を出品。
10月
第12回帝展に《野良犬》を出品するが、落選となる。
1932年(昭和 7)─── 24歳
塾の先輩 澤 宏靱こうじんと結婚、京都市左京区田中樋口町ひのぐちちょうに住む。
5月
第9回青甲社塾展(京都岡崎公会堂東館)に《花まつり》を出品、入選。
10月
第13回帝展(東京府美術館)に《ゆあみ》を出品、入選。
雅号を〈不矩ふく〉とする。
大毎女流展に《青梅》を出品、入選。
1933年(昭和 8)─── 25歳
1月
二俣町役場の幹部らが発起人となり、〈秋野不矩後援会〉が発足する。
4日
長男 癸巨矢きくし 誕生。
5月
第10回青甲社塾展(京都岡崎公会堂)に《ごちそう》を出品、入選。
10月
第14回帝展(東京府美術館)に《朝露》を出品、入選。
大阪・京都の女流7人で〈奈那久佐会ななくさかい〉を結成。生田花朝女いくたかちょうじょ、梶原緋佐子かじわらひさこ、三谷十糸子みたにとしこ 会員。後の〈春泥社〉へとつながる。
1934年(昭和 9)─── 26歳
5月
大礼記念京都美術館展に《春閑》を出品。
(京都の各画塾は塾展を中止)
10月
第15回帝展(東京府美術館)に《ゆの後》を出品、入選。
1935年(昭和10)─── 27歳
4月
7日
次男 亥左牟いさむ 誕生。
5月
第1回京都市美術展覧会(大礼記念京都美術館/現 京都市美術館)に《百日草》を出品。
10月
(この年、帝展不開催。)
12月
父 惣吉没。翌年夏まで天竜で静養する。
《天竜川》を制作。
1936年(昭和11)─── 28歳
11月
昭和11年文展監査展(東京府美術館)に《砂上》を出品、入選。選奨(帝展の特選と同じ)受賞。
1937年(昭和12)─── 29歳
5月
第2回京都市美術展覧会(大礼記念京都美術館)に《小児群像》を出品、入選。
6月
京都の女流画家の会〈春泥社〉結成参加。梶原緋佐子、三谷十糸子、広田多津ひろたたづらが同人。第1回春泥社展(京都丸物百貨店楼上)に《首夏しゅか》他2点を出品。
10月
16日
三男 子弦みつる 誕生
京都市東山区岡崎広道三条下る(粟田口)に転居。
11月
第1回新文展(東京府美術館)に《小児群像》を出品、入選。
1938年(昭和13)─── 30歳
3月
第11回青甲社塾展(大礼記念京都美術館)に《三人の娘》を出品。
5月
第3回京都市美術展覧会(大礼記念京都美術館)に《兄弟》を出品、入選。
6月
青甲社素描展(京都大丸百貨店)に《女》を出品。
11月
第2回新文展(東京府美術館)に《紅裳こうしょう》を出品、特選を受賞。
1939年(昭和14)─── 31歳
3月
第12回青甲社塾展(大礼記念京都美術館)に《女性》を出品。
7月
青甲社小品展(大阪高島屋百貨店)に《少女》を出品。
25日-30日
初個展(大阪大丸百貨店)。
12月
橋本多聞堂新作画展(日本橋東美倶楽部)に《雪崩れ》を出品。
1940年(昭和15)─── 32歳
1月
長女 靱子ゆきこ 誕生。
2月
青甲社塾小品展(京都四塾連鎖展/銀座資生堂、閑尚美堂主催)に《春》を出品。
4月
大毎東日奉祝日本画展覧会(大阪毎日・東京日日新聞社主催)に《陽》を出品、大毎東日賞受賞(特選第1席)。
11月
紀元2600年奉祝展(大礼記念京都美術館)に《朝》を出品、京都市買上げ。
12月
第2回青甲社小品展(大阪高島屋百貨店)に《綿木》を出品。
1941年(昭和16)─── 33歳
5月
新文展無鑑査に決定。以後隔年出品。
青甲社海軍献納画展に《天竜川(二題)》を出品。
1942年(昭和17)─── 34歳
5月
23日
四男 矩之のりゆき 誕生。
第7回京都市美術展覧会(大礼記念京都美術館)に《子ら》を出品。同展審査委員となる。
11月
第5回新文展(東京府美術館)に《新秋》を出品。
1943年(昭和18)─── 35歳
6月
第8回京都市美術展覧会(大礼記念京都美術館)に《童女》を出品。同展参与となる。
11月
第6回新文展(東京府美術館)に《童女》を招待作品。
1944年(昭和19)─── 36歳
4月
産業戦士贈画展(西山翠嶂塾 青甲社主催)に《童女》を出品。
7月
平安遷都1150年奉祝京都市美術展覧会(大礼記念京都美術館)に《秋草》を招待出品。
10月
戦時特別文展に《騎馬戦》を無鑑査出品。
12月
家主の都合により京都市美術館近くの京都市左京区岡崎法勝寺町124へ転居。
1945年(昭和20)─── 37歳
2月
18日
五男 等ひとし 誕生。
8月
15日
敗戦を京都で迎える。
11月
第1回京都市主催美術展覧会(後の〈京展〉)に《秋萩》を出品。
1946年(昭和21)─── 38歳
10月
16日-11月20日
第2回日展(東京都美術館)に《姉妹》を出品。
1947年(昭和22)─── 39歳
10月
第3回日展(東京都美術館)に《桔梗》を出品。
1948年(昭和23)─── 40歳
1月
26日
日展を離れて〈創造美術〉を結成。創設時メンバーは秋野不矩のほか上村松篁、広田多津、澤 宏靱、向井久万くま、菊池隆志、奥村厚一、山本丘人きゅうじん、吉岡堅二、高橋周桑しゅうそう、福田豊四郎、橋本明治、加藤栄三。
9月
第1回創造美術展(東京都美術館)に《作品I》《作品II》を出品。
1949年(昭和24)─── 41歳
5月
9日-14日
第1回創造美術春季展(日本橋 丸善画廊)に《少女》を出品。
9月
京都市立美術専門学校助教授に就任。
21日 - 10月10日
第2回創造美術展(東京都美術館)に《少年群像》を出品。
1950年(昭和25)─── 42歳
4月
京都市立美術大学助教授に就任(この年大学設置認可・京都市立美術専門学校助教授兼任)。
5月
23日 - 28日
第2回創造美術春季展(日本橋高島屋)に《少女》を出品。
9月
22日 - 10月8日
第3回創造美術春季展(東京都美術館)に《少年群像》を出品。
1951年(昭和26)─── 43歳
2月
20日
《少年群像》(第3回創造美術春季展)および今日までの画績に対し第1回上村松園賞を受賞。本賞は若手女流日本画家に与えられる賞。選考委員は福田平八郎、山口蓬春、小野竹喬、山本丘人、上村松篁。
5月
第3回創造美術春季展(日本橋高島屋)に《裸婦》を出品。
9月
10日
〈創造美術〉と〈新制作派協会〉が合流し、〈新制作協会日本画部〉となる。
10月
第15回新制作展(東京都美術館)に《裸婦》を出品。
1952年(昭和27)─── 44歳
4月
新制作春季展(日本橋三越)に《少女》を出品。
9月
第16回新制作展(東京都美術館)に《立てる女》を出品。
1953年(昭和28)─── 45歳
4月
新制作春季展(日本橋三越)に《花》を出品。
5月
第2回日本国際美術展(東京都美術館/毎日新聞社主催)に《五月》を出品。
9月
第17回新制作展(東京都美術館)に《坐す》を出品。
1954年(昭和29)─── 46歳
1月
第1回女流3人展〈秋野不矩・小倉遊亀・三岸節子〉(銀座松坂屋)を開催。以後5回開催される。
4月
新制作春季展(銀座松坂屋)に《裸童》を出品。
9月
第18回新制作展(東京都美術館)に《裸婦》を出品。
10月
奥村厚一・秋野不矩二人展(京都大丸)を開催。
1955年(昭和30)─── 47歳
4月
新制作春季展(京都市美術館)に《眠る子供》を出品。
5月
第3回日本国際美術展(東京都美術館)に《裸童》を出品。
9月
第19回新制作展(東京都美術館)に《立像》を出品。
1956年(昭和31)─── 48歳
4月
新制作春季展(京都市美術館)に《青年立像》《静物》を出品。
5月
第2回現代日本美術展(東京都美術館/毎日新聞社ほか主催)に《青年》を出品。
9月
第20回新制作展(東京都美術館)に《裸童》を出品。
1957年(昭和31)─── 49歳
4月
新制作春季展(京都市美術館)に《青年像》を出品。
5月
第4回日本国際美術展(東京都美術館)に《裸婦》を出品。
9月
第21回新制作展(東京都美術館)に《男の像》《女の像》を出品。
1958年(昭和33)─── 50歳
4月
新制作春季展(京都市美術館)に《猫》を出品。
9月
第22回新制作展(東京都美術館)に《風景》《静物》を出品。
オーストラリア・ニュージーランド巡回日本美術展(東京国立近代美術館)に《坐す》を出品。
同展は11月よりオーストラリア・ニュージーランドを巡回。
10月
澤 宏靱と離婚。
1959年(昭和34)─── 51歳
4月
新制作春季展(京都市美術館)に《猫(花の猫)》を出品。
5月
第5回日本国際美術展(東京都美術館)に《花の猫》を出品。
9月
第23回新制作展(東京都美術館)に《州(洲)》を出品。
1960年(昭和35)─── 52歳
4月
新制作春季展(京都市美術館)に《静物(花)》を出品。
5月
第4回現代日本美術展に《暮れる海》を出品。
9月
第24回新制作展(東京都美術館)に《人物(立像A)(立像B)》を出品。
1961年(昭和36)─── 53歳
4月
新制作春季展(京都市美術館)に《静物》を出品。
5月
第6回日本国際美術展(東京都美術館)に《少年と猫》を出品。
9月
第25回新制作展(東京都美術館)に《女たち(黒髪)》を出品。
1962年(昭和37)─── 54歳
5月
第5回現代日本美術展(東京都美術館)に《椅る女》を出品。
7月
インド初滞在(1年間)。西ベンガル州のサンティニケタンSantiniketan ビスバ・バラティ大学Visva-Bharati University(現 タゴール国際大学)客員教授として招かれる。サンティニケタンのほかアーグラのタージ・マハル、ラジャスタン、ジャイプール、アジメール、ウダイプール、バトナー、ブバネシュワール、プーリーなど、インド各地を訪れる。
1966年(昭和41)─── 58歳
5月
京都市立美術大学(現 京都市立芸術大学)教授となる。
1967年(昭和42)─── 59歳
6月
京都市美術館平常陳列の企画展で「秋野不矩・齋藤真成」二人展を開催。