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ふたつの小児群像

 1936年(昭和11)に制作された一見すると同じに見えるふたつの絵がある。裸童が組んず解れつする図、数えると20〜30人近くも描きこまれて、タイトルは共に《小児群像》と同じである。2点とも現存せず、印刷されたモノクロの写真図版でしか作品のアウトラインを知ることはできない。しかし、つぶさに写真を観察すると、子どもたちの人数、配置、構図の違いなど歴然としている。


ふたつの《小児群像》1937年/左は第2回京都市美術展覧会、右は第一回文展に出品
ふたつの《小児群像》1937年/左は第2回京都市美術展覧会、右は第一回文展に出品

 1作目の《小児群像 I》(作品の区別のため1作目を《I》、2作目を《II》とする)は、1937年(昭和12)5月に開催の第2回京都市美術展覧会(大礼記念京都美術館/現 京都市美術館)に出品された。

 『塔影』13巻7号(昭和12年7月15日)に掲載された神崎憲一による展覧会評「京都市美術第二回展」で《小児群像 I》は次のように評された。


秋野不矩氏「小児群像」、色調が何処か考へ過ぎて途中の感じを与へるが、小児のいろんなスケッチを組合せた事に依つての一図の構成、と云ふ意味で興味を惹く。一人々々の形など却々よく見てある。

《小児群像 I》1937/第2回京都市美術展覧会(大礼記念京都美術館,1937年5月)出品
《小児群像 I》1937/第2回京都市美術展覧会(大礼記念京都美術館,1937年5月)出品

 神崎の評を読むとモノクロ写真では伝わらない、絵の中の子どもの肌が微妙な色彩の階調を持っていたことが伝わる。「考へ過ぎて途中の感じ」を抱かせたところに、不矩をして2作目の制作に向かわせたのだろうか。

 いたいけない子どもの姿態を、不矩は前年(1936年)秋、昭和11年文展鑑査展(東京府美術館/大礼記念京都美術館)に出品した《砂上》にも描きこんでいる。


《砂上》1936年/昭和11年文展鑑査展(東京府美術館/大礼記念京都美術館)出品
《砂上》1936年/昭和11年文展鑑査展(東京府美術館/大礼記念京都美術館)出品

 《砂上》に描かれた子どものモデルは、この絵の制作に取り掛かった頃、3歳だった長男の癸巨矢きくしである。《小児群像 I》の子どもは《砂上》の子より幼く見えるので、当時2歳の亥左牟いさむがモデルとなったのだろう。

 「小児群像」というタイトルに見える〈群像〉というモチーフは、後年《少年群像》(1950年)、《女人群像》(1988年)など、人間の姿態を群像として描くスタイルとして繰り返し取りくまれており、とりわけ子どもの姿は、この頃(1935年前後、秋野不矩20代後半)の不矩を捉えて離さない身近な題材でもあった。


《小児群像II》1937/第1回文展(東京府美術館,10月/京都美術館,11月)出品
《小児群像II》1937/第1回文展(東京府美術館,10月/京都美術館,11月)出品

 さて《小児群像 I》に続く《小児群像 II》は、《I》が描かれて半年も経たず描かれている。余談だが、《小児群像 II》の制作時、不矩は臨月を迎えていた。三男 子弦みつるの誕生した1937年(昭和12年)10月16日は、本作《II》が出展された東京での第1回文部省美術展覧会の初日である。不矩は「子弦はお腹の中で絵の完成を待っててくれた」という旨の言葉を残している。

 およそ22人の子が描かれた《小児群像 I》から、《II》は子の数が4、5人は増えている。また前景の子どもの姿はしっかりとした輪郭で描かれ、後景へ退くにしたがい淡く輪郭も背景に溶けこむようだ(印刷図版によるので詳細は知れない)。「考へ過ぎて途中の感じ」だった《I》と比べて、ひとりの子が様々な姿態で描かれているにも関わらず、ひとりひとりのなかにめいめいの意思が感じとられて、それら意思のゆらぎが群れとしての動きとなり、まさに〈群像〉で捉えられるようになった。

 しかし、《小児群像》は、2作ともに芳しい評は得られなかった。たとえば、第1回文展の出品作について語られた座談会では、画の内容にも触れられていない。


三宅(鳳白) 書直しましたか。
上村(松篁) さうです。
三宅 前のとどつちがいゝか、市展(第2回京都市美術展覧会)に出た方がよくはないかな。

『美術と趣味』第3巻1号(昭和13年1月1日)


 前年(1936年)の《砂上》が選奨(帝展の特選と同じ)を受賞しており、翌年(1938年)第2回文展で《紅裳》が特選に選ばれたことからも、閨秀画家として秋野不矩にかけられる期待が大きかった分、《小児群像》は、どうやら画壇から求められる画の傾向とは異なっていた。

 当時、画壇が秋野不矩をどのように評価していたかを知る美術評論家 豊田豊のエッセイがある。それは《砂上》と《紅裳》に挾まれた《小児群像》を巡って書かれたもので興味深い。


 しかしそこまで肉迫して来た彼女の実力は軈やがて酬はれずにはゐなかつた。『ゆあみ』から五年後、昭和十一年平生新文展に於ける『砂上』は厳選寡賞、僅か四つの選賞の中に挙げられて輝く受賞となつた。真の実力ある者は寧ろ真の厳粛な時にこそ酬はれる。新帝院改組以来の厳正な改組精神は、今反つて入選受賞の困難なこの時に往年故西村五雲や僕をしてその実力を啻ただならず認めさせた不矩女史の今更より以上発展し生長した芸術に対し正しく酬ひるに至つたのである。だがその翌年の『小児群像』は無賞に過ぎた。安田新文相の手によつて更に再改組されたこの新文展第一回は、その厳正精神に於いては前年に劣らず峻烈であり、その点『小児群像』の特選を以つて酬ひられなかつたことは僕等の観た公平な批評心を以つてしても渋々肯くほかなかつた。等しく小児の裸体を描きながらも『砂丘』の海浜の実質写実、夏を海浜の光線、気温、砂の物理的な実質感覚や、横臥する小児等の若き母親の背向けになつた日焼けした赭あか色は、小児等のそれとともに夏の日の太陽の受浴作用を幾重にも効果して、新しき文化画としての価値を泰西のピカソやドランやロートを品雅に和化して確然と整へた真に時代の明星ともいふべき佳品であつた。だが『小児群像』はそれの同様の取材を執拗煩瑣に繰返して、然も『砂上』に観る現実の先鋭な迫真力を缺き、少しく自己満足のフアンタジーに耽溺し終つた感があつた。だが両者を通じて観られる母性愛表現は、三谷十糸子女史のバトンを譲り受けて、更にそれを洋風に新鋭化して、彼女自体の詩的情操によつて抒情づけたかの感がある。『小児群像』の浪漫性も畢竟当時日本画壇に漸く台頭せんとしてゐたシユール・レアリズムの新風を仏画の曼荼羅調に摂り入れたものと観るべく、然も小児一つ一つの姿態は彼女の愛児の生活行程とも見るべき写実のフヰルムであり、母性愛溢るゝ育児暦でもあつた。

『豊田豊美術評論全集 第1巻 (芸術清談)』(古今堂、昭和16年)


 このあと豊田は、不矩が「『小児群像』の失敗を自覚」したことにより、《紅裳》を描くことができ、そこに秋野不矩の画業が安定し確立したと述べている。

 果たしてそうだろうか。豊田のエッセイは昭和10年代の秋野不矩の目覚ましい活躍を伝えるが、1940年(昭和15)頃に書かれたものなので、豊田は不矩の画業がその後、どのように展開していくかを知らない。同じ年に、同じモチーフで2枚の大作を描くことは、豊田が言う「自己満足のフアンタジー」だったのだろうか。決してそのような事情でないことは明らかだ。

 1930年(昭和5)、《野を帰る》で帝展初入選を果たし、翌年出品した《野良犬》が落選。その時の心境を「落選せぬような絵を描くこととなり、残念に思ったことである」(「初入選 落選 創造美術」/『バウルの歌』1992年、筑摩書房)と述べた。不矩にとって「『小児群像』の失敗」の自覚は、またしても「落選せぬような絵を描くこと」を強いられた負の自覚ではないか。

 しかし、1938年(昭和13)に描かれた《紅裳》が、5人のめいめい違った柄の紅い着物をまとった女たちの〝群像〟であり、しかもひとりのモデル(都ホテルに勤務する女給さん)が群像のうちの4役をつとめている。右上のひとりだけ違う顔立ちした何か考えごとをしている(と見える)女性が、どこかしら秋野不矩自身と似ている。生前それを尋ねられると、不矩は否定も肯定もしなかったと言う。


《紅裳》1938年
《紅裳》1938年

 
 
 

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